日本人は早く仏教に由って「無常迅速の世の中」と教えられ、
儒教に由って「日に新たにしてまた日に新たなり」ということを学びながら、
それを小乗的悲観の意味にばかり解釈して来たために、
「万法流転」が人生の「常住の相」であるという大乗的楽観に立つことが出来ず、
現代に入って、舶載の学問芸術のお蔭で「流動進化」の思想と触れるに到っても、
動《やや》もすれば、新しい現代の生活を呪詛《じゅそ》して、
黴《かび》の生えた因習思想を維持しようとする人たちを見受けます。
たとえていうなら、その人たちは後ろばかりを見ている人たちで、
現実を正視することに怠惰《たいだ》であると共に、未来を透察することにも臆病であるのです。
そういう人たちは保守主義者の中にもあれば、
似非《えせ》進歩主義者の中にもあるかと思います。
私のおりおり顰蹙《ひんしゅく》することは、
その人たちがしばしば「女子の中性化」
というような言葉を用いて現代の重要問題の一つである女子解放運動を善くないことのように論じることです。
それはその人たちが女子の人間的進化を嫌う偏見を先入的に持っていると共に、
人生を一つの法則、一つの様式の中に固定すべきものと考える静態的な因習思想を維持するために、
わざわざ、人の厭《いや》がる言葉を掲げて、
一方には女子を威嚇《いかく》してその新しい擡頭《たいとう》を抑えようとし、
一方には社会の聡明な判断を掻《か》き乱して、
女子解放運動に同情を失わしめようとする卑劣千万な論法であるように、
私には感じられます。私はそれについて、少しばかり抗議を書こうと思います。